2017-10-18 17:10 | カテゴリ:歴史

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 親子爆弾事件とは、1951年(昭和26年)12月16日に大阪府大阪市で発生した事件。在日朝鮮人によって、工場・民団襲撃、集団暴行などが起こされた。

 朝鮮戦争勃発後、日本経済は特需景気に沸き、大阪市東部の町工場では「親子爆弾(現在の用語ではクラスター爆弾)」を製造していた。

 そんな最中、ある朝鮮人の事故死をきっかけに東成警察署襲撃事件が起きるなど、東成区一帯が緊迫した空気に包まれ始めた。

 1951年12月16日午後、前述の事故死した朝鮮人の慰霊祭が執り行われた。慰霊祭には遺族などの関係者だけでなく、生前に何の縁のない朝鮮人が赤旗やプラカードを持って多数参列した。生野警察署は不穏な空気を察して解散命令を出したが、群衆はそれを無視し三つの部隊に分かれてデモ行進した。

 第一部隊は、生野区にある工場を襲撃しようとしたが、大阪市警視庁機動隊に阻まれて解散させられた。別働隊が某工場の侵入に成功し、親子爆弾を撒き散らした。

 第二部隊は、中河内郡巽町(現在は生野区内)方面に向かい、2ヶ所の工場を襲って、従業員を暴行したり施設を破壊したりした。

 第三部隊は、東成区方面に向かい、2ヶ所の工場を襲った後、民団鶴橋分団長の自宅を襲撃した。

引用:Wikipedia


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2017-10-17 17:19 | カテゴリ:歴史
■終戦直後 朝鮮人が日本人にしたこと 東成警察署襲撃事件 1951年(昭和26年)12月1日

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 東成警察署襲撃事件とは、1951年(昭和26年)12月1日に、大阪府大阪市東成区で発生した事件。

 1951年11月10日午後6時頃、大阪市警視庁東成警察署の警察官が泥酔している在日朝鮮人男性(安重鎔)を生野区大友町で発見、保護した。保護後、男性の容態が急変し、治療の甲斐なく午後7時30分死亡が確認された。

 司法解剖の結果、死因は肝臓が破裂したことによる多臓器不全であった。彼は泥酔しながら自転車に乗り、誤って転倒した時に身体を強く打ち、動けなくなったところを警察官に保護されたのであった。

 翌日、署長は面会に訪れた遺族に、事の次第を詳細に説明したが、朝鮮人は男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けて、一方的なデマを流し、東成警察署に抗議するようになった。

 1951年11月12日午前7時30分ごろ、生活擁護同盟生野支部長ら約30名が署長に面会を求め、署長は代表者6名と面談し、真相を詳細に伝えた。

 1951年12月1日午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校(今の大阪朝鮮第四初級学校)に集まり、東成警察署までデモ行進した。

 その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された。

 12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した(親子爆弾事件)。

引用:Wikipedia


2017-10-16 17:20 | カテゴリ:歴史
■坂町事件(昭和21年):闇市の取締りに反発した在日による暴力事件

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 坂町事件とは、1946年(昭和21年)9月22日に、新潟県岩船郡保内村(現・村上市)で発生した事件。

 終戦直後より在日朝鮮人や在日中国人は、取締権限の不明確さに乗じて公然と日本の法律を無視し、食糧管理法に反するヤミ米の流通・販売などの経済統制違反を繰り返していた。

 新潟県北部では、在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線坂町駅を中継基地として、ヤミ米を関西方面に出荷していた。当時、1日あたり50俵が坂町駅を経由したといわれている。

 1946年9月22日午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。

 この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。

 金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。

 その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。

 軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。
その後の顛末

 検挙された12人は新潟軍政部に移され、取り調べを受けたが、新潟県外への追放とヤミ米の買出しをしない旨の誓約書提出だけで全員釈放された。またこの事件を報じた報道機関が、朝鮮人に破壊活動を受ける新潟日報社襲撃事件へと発展した。

引用:Wikipedia


2017-10-16 12:00 | カテゴリ:歴史
■明治維新が海外に与えた影響や評価の実相に迫る『日本が世界に尊敬される理由は明治維新にあった』

2017.10.7 産経ニュース

日本が世界に尊敬される理由は明治維新(200x300) 来年は明治維新から150年。本書は諸外国が日本の明治維新をどのように捉えてきたかということを歴史資料から紹介し、その世界史的な意味を解説したものです。

 中国革命を目指した孫文が明治維新を手本にしていたことは有名ですが、1917年のロシア革命から、23年のトルコ革命、戦後のエジプト近代化などに大きな影響を与え、世界のパラダイムを一変させたことで、現在もなお海外で盛んな研究がなされていることを紹介。

 加えて、日本近代化の波がどのようにアジア、そして世界へと拡散し、思想から科学技術までを変えていったのかを論証しています。

 同時に、多くの国々が明治維新をまねして改革・革命運動を起こしてきたものの、日本のように小国がわずか30年ほどで一気に近代化、列強に伍(ご)するほど大国化した例はないと指摘。その理由として、神道の習合と産霊(むすひ)によって仏教や儒教など外来思想を巧みに取り入れながら、日本にとって害悪となる部分を排除し、新たな文化・文明を創出してきた歴史背景と、それを支えてきた「万世一系」にあると喝破しています。

 近年、日本では明治維新を「誤りだった」とする評論が話題となり、また、中国や韓国は日本の明治産業革命遺産を「侵略の歴史美化」だと批判する動きもありますが、本書は戦後の価値観ではなく、当時の海外でのさまざまな評価を紹介しつつ明治維新の実相に迫っており、類書とは一線を画す内容です。(黄文雄著/徳間書店・1000円+税)

 徳間書店学芸編集部 明石直彦

引用:産経ニュース


2017-10-15 17:14 | カテゴリ:歴史
■終戦直後 朝鮮人が日本人にしたこと 長田区役所襲撃事件 1950年(昭和25年)11月20日

この長田区役所襲撃事件の2年後1952年朝鮮人の脅迫に負けた区役所からほぼ無条件で生活保護、住民税、所得税減免などの在日特権を奪った。

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 長田区役所襲撃事件とは、1950年(昭和25年)11月20日から11月27日にかけて、兵庫県神戸市長田区で発生した在日朝鮮人による公安事件。

 第一神戸事件(阪神教育事件)に続く、神戸で起きた第二の騒乱事件という意味から第二神戸事件ともいう。

 1949年から始まったドッジ・ラインにより、デフレーションが進行し失業や倒産が相次いだ。在日朝鮮人も例外でなく、失業者が激増した。こうした状況の下で、朝鮮人は「朝鮮人生活擁護闘争」を展開、地方税の減免や生活保護の適用を求めるために、各地の役所に押しかけるようになった。

 1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。

 11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。

 11月27日朝、長田区にある西神戸朝鮮人学校に千数百人の朝鮮人が集結、神戸市警察は全警察官を総動員して対処した。朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。

 遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。

 神戸地方検察庁は、騒乱罪、公務執行妨害罪、占領目的阻害行為処罰令違反で、合計118人を起訴した。裁判の結果、騒乱罪と占領目的阻害行為処罰令違反の成立は認めず、17人についてのみ公務執行妨害罪等で有罪となった。

引用:Wikipedia


2017-10-14 17:00 | カテゴリ:歴史
■【朝鮮進駐軍】~「民団」と「朝鮮総連」の正体

 この記事は2015/11/21 の記事の再掲載です。

 何事も調べてみないとわからないものです。過去を知ると、現在の有様に納得できます。「ケーPOP好き!」とか言ってるひとがこれをみてどう反撃するのか楽しみです。(そういえば、過去にこだわるなとコメントしてきた特ア系の人がいましたが、日本人を犯罪者扱いして様々なことを捏造して何十年と金をタカってきた彼らには自分のしていることがどういうことなのか理解できる頭はないようですね。)

 戦後の日本はどのような状態だったのか、現在日本にある特定団体の姿が少し違って見えてくるかも知れません。

2011/09/08公開 5:53


朝鮮進駐軍とは
 1945年(昭和20年)終戦時の日本に特別永住権を持った在日朝鮮人による、「犯罪組織」です。終戦の混乱期に「窃盗」「暴行」「略奪」「殺人」「強姦」「警察署の襲撃」「公的機関への襲撃」「土地建物の不法占拠」「鉄道や飲食店での不法行為」など様々な犯罪を引き起こしました。

 自称「戦勝国民」などと主張し「朝鮮進駐軍」を名乗り、日本各地で徒党を組んで暴れ回りました。そんな混乱の中でGHQの資料によると、最低4000人の日本市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり、殺害されたとあります。

 朝鮮進駐軍は三八式歩兵銃や日本刀、機関銃の日本軍銃器を盗み武装しました。朝鮮進駐軍は日本人を装い、日本人への当て付けとして旧日本兵パイロットの軍服を好んで着用した。日本各地に散らばり、犯罪行為を繰り返していました。終戦直後のの日本では戦場に男手を狩り出されたため
極度の男手不足に陥っていました。都市部では疎開や空爆の被害で人手が足りない状況が続いていて警察は有りましたが武器の携帯や使用はGHQによって制限されていた為、朝鮮進駐軍に対処できず、彼らの犯罪を増加させてしまいました。

 抑止力の空白化で、しかしそんな中、今では考えられませんが当時のヤクザが朝鮮人から日本人を守る役割を果たしていたのです。今では単なる暴力団となってしまいました。

 戦後当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしていましたが朝鮮進駐軍の犯罪から朝鮮人名というものに悪いイメージを抱くようになったため通名として日本人名が使われるなったと言います。

記事の続き有り 「>>続きを読む」からどうぞ ~( ^-^)_

2017-10-13 17:39 | カテゴリ:歴史
■【戦後日本の闇】韓国・朝鮮人の暴力に屈した 「阪神教育事件」

2015/05/15公開 2:32



■【KSM】阪神教育事件って知ってる? 日本共産党は韓国人の『旧友』~韓国の大学、志位氏の著書を教材に
2015/08/23公開 9:45


 阪神教育事件は、1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した朝鮮人[4]と日本共産党による民族教育闘争、大規模テロ、逮捕監禁・騒乱事件で、日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告された。朝鮮人学校事件、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件、また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件とも呼ばれる。

[4]:朝鮮に本籍を有する日本国民を指す言葉。大韓民国の建国は1948年8月15日、朝鮮民主主義人民共和国の建国は1948年9月9日であり、事件当時はいずれも建国されておらず、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍の軍政下にあった。事件当時朝鮮人は日本国籍を持つものの外国人登録令によって「当分の間、これを外国人とみなす」とされていた。

 1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。

記事の続き有り 「>>続きを読む」からどうぞ ~( ^-^)_

2017-10-12 17:31 | カテゴリ:歴史
■在日朝鮮人による日本国内の未解決事件「富坂警察署襲撃事件」

2015/03/22公開 1:50


 富坂警察署襲撃事件とは、1946年(昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。 終戦直後の混乱もあって犯人逮捕・特定には至らず、未解決事件となった。

 1945年12月30日、警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。当時の富坂警察署は戦災で焼失しており、小石川国民学校の校舎を間借りしている状態であったため、3人の容疑者は警視庁本部と大塚警察署の留置場にそれぞれ留置されていた。

 翌1946年1月2日、容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。

 1946年1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。

 危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。

 交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。

 在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。

 警視庁は、全力をあげて事件の捜査にあたったが、終戦直後の混乱もあって逮捕には至らなかった。


2017-10-11 17:10 | カテゴリ:歴史
■終戦直後 朝鮮人が日本人にしたこと 生田警察署襲撃事件 1945年(昭和20年)12月24日

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 生田警察署襲撃事件とは、現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が襲撃された事件である。在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)からなる暴徒によって1945年(昭和20年)12月24日、および翌1946年(昭和21年)1月9日の2回続けて発生した。

◆第1回目の襲撃事件

 1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた(理由は後述)。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。

 襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料[1]には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない。

[1]: 『兵庫県警察史 昭和編』447頁

◆第2回目の襲撃事件

 翌年1946年1月9日、三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、30~40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した。


2017-10-10 17:18 | カテゴリ:歴史
■直江津リンチ殺人事件「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」1945.12.29

2014/02/07公開 2:34


 1945年12月29日午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客(当時29歳のセールスマン)に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。

 列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。

 警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した。

 犯人は3人とも在日朝鮮人で、戦時中は工場に勤務していたが、終戦後は闇米ブローカーに転身した。事件当日も農家から米を買い集め大阪方面に売りに行く途中であった。

 犯人の在日朝鮮人3人は殺人の容疑で検事局に送られたが、まもなく逃走し行方知れずになったため、司法で裁かれることはなかった。