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2017-12-16 14:21 | カテゴリ:歴史
■マッカーサーが恐れた日本人

スタンフォード大学 西鋭夫

 1941年12月8日、真珠湾攻撃と同日、マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで日本軍を迎え撃つ。マッカーサー軍15万人に対し、日本軍はその3分の1にも満たない4万3000人。マッカーサーは余裕で撃退できると自信を持っていた。

 しかし日本は、初日の爆撃で大きな成果を上げ、フィリピンの航空戦力を壊滅まで追い込む。その状況にマッカーサーは、「日本軍の戦闘機は、ドイツ人パイロットが操縦していた」と本部に報告するまで日本軍を低く評価していた。

 ところがその日本軍の怒涛の進軍は止まらず、マッカーサーは侵攻からわずか1ヶ月で首都マニラを明け渡すことになり、マニラ近くのバターン半島での防衛戦しか残された道はなかった。

フィリピン_バターン半島地図(470x384)

 小さい半島で大軍を抱えることになったマッカーサー。致命的なことに食料がなく、飢餓と疫病、そして連日の日本軍の猛攻に誰もが衰弱していった。「このままではマッカーサーが捕虜になりかねない」と見かねたワシントン側が、マッカーサーにフィリピン脱出を命じた。

 悩んだ末の決断ではあったものの、司令官たる者が部下を捨て、なんと8万人以上もの捕虜を残して、マッカーサーは暗く狭い魚雷艇に乗って戦地を脱出していった…

 マッカーサーの父はフィリピンの初代総督で、彼自身もフィリピンで家族と生活し、フィリピン陸軍元帥に就任。第2の故郷とも呼べるような土地で、日本軍に追い詰められ大量の捕虜を置いて逃走した経験は、マッカーサーの軍人人生において「大汚点」となった。しかもその汚点をつけたのは、彼にとって格下のはずだった「まさかの日本人」。

 その胸をえぐるような悔しさを表した行動が、2年半後の1944年から見られる。

 既に日本は大戦力を失い、サイパンも陥落。アメリカの参謀本部の提案は、無防備な日本本土を攻撃してトドメをさすか、日本軍が大軍を配置するフィリピンを素通りして台湾に侵攻するかだった。

 しかしマッカーサーは、自分に大汚点をつけた日本人への恨みを晴らすために、自分の思い入れがある土地を奪還するためだけに、フィリピンへの侵攻を進めてしまう。

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2017-12-15 12:02 | カテゴリ:歴史
■海外「日本はアジアの英雄だった」 インドネシアの独立に尽力した日本兵たち

パンドラの憂鬱

 第二次世界大戦終結後、独立を宣言したインドネシア共和国と、再び植民地化に乗り出したオランダとの間で起こったインドネシア独立戦争。
 1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になりました。

 この戦争には、独立軍の将兵の教育や作戦指導に関わった、或いは実際に戦闘に加わるなどした日本人の将兵が数多く存在しており、その功績に対し、1988年8月17日の独立記念日に、金子智一氏など6人の日本人が、国家最高の栄誉である「ナラリア勲章」がスカルノ元大統領から授与されています。

 映像には、独立に貢献した金子智一さん、宮元静雄さん、小野盛さん、そして元マレー大学副総長やインドネシアの元第3副首相が登場し、当時の状況や、日本(軍)がアジアに与えた影響などを語っていらっしゃいます。(映像は全編日本語ですが、英語の字幕が付けられています)。

 映像を観たインドネシアの方々から、肯定的なものから否定的なものまで、様々なコメントが寄せられていましたので、その一部をご紹介します。

Japanese Samurai :who contributed to Indonesian independence
2007/08/08公開 6:35


■コメント

・フランスはアメリカの独立を助けたわけだけど、俺たちにとってのフランスが日本だったってところなのかな。
・日本の統治はわずか3年間だけだったけれど、彼らのスピリッツを俺たちは深く記憶してる。日本万歳!!!!
・アジア人の力で勝ち取った独立だな。 
・日本人がインドネシアの独立を助けたのは戦後だけじゃん。それ以前はインドネシア人に暴行を加えてた……。酷いプロパガンダだ…。
・これは事実なんだよ。…プロパガンダなんかじゃない。一方だけじゃなくて、もう一方の声にも耳を傾けなくちゃ。
・戦時中の日本軍に関して唯一リスペクトできるのは、彼らは欧米の植民地だった東南アジアの国々にあったどの王室にも、危害を加えるようなことはしなかったってことなんだ。たぶん日本にも天皇がいて、王(皇)室に敬意を持ってたからなんだろうね。

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2017-12-10 14:48 | カテゴリ:歴史
■終戦を遅らせたソ連の秘密工作 ~ 江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』から

メルマガ「Japan On the Globe」

 今こそ「日本は誰と戦っているのか」を問わなければならない。

◆1.ソ連の工作員が終戦を遅らせた

 昭和16(1941)年、ソ連の工作員がアメリカのルーズベルト政権と日本の近衛文麿内閣に潜り込んで、日米を戦争に引きずりこんだことは、弊誌で何度か取り上げた。

 しかし、同じくソ連の工作員たちが、日米の講和を妨害した事はあまり知られていない。その結果、終戦が何ヶ月も遅れ、硫黄島や沖縄での激戦で日米双方での多数の軍民が犠牲になった事、さらに空襲や原爆投下、そしてソ連侵攻による満洲・北朝鮮での民間人暴行、将兵のシベリアへの拉致、北方領土侵略など、戦争末期の被害がもたらされた。

 このあたりを、江崎道朗氏の最新刊『日本は誰と戦ったのか』がアメリカでの近年の歴史研究成果に基づいて明らかにしているので、本号ではその一部を紹介して、この好著への誘いとしたい。

◆2.「ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」

 話は終戦の6か月前、昭和20(1945)年2月4日から11日にかけて、クリミア半島南端、黒海に臨むヤルタで行われた米英ソの首脳会談、ヤルタ会談に遡(さかのぼ)る。

 当時、ルーズベルト大統領は心臓疾患による極度の高血圧で、ほとんど執務不可能の状態となっていた。ヤルタへの長旅と時差は、さらなる負担となっただろう。

 ヤルタ会談では英国外務次官アレクサンダー・カドガンは、ルーズヴェルトは「会議を主宰するよう呼ばれても掌握も先導もできず、ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」と述べている。ルーズベルトはこの会談の2か月後、高血圧性脳出血で死去している。スターリンはこういう状態のルーズベルトを相手に、交渉したのである。

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2017-12-09 12:00 | カテゴリ:歴史
■高須克弥院長「日本の未来に役立つ財産だ。皇室にお返しするぜ」昭和天皇独白録を落札

2017.12.7 産経ニュース

高須クリニックの高須克弥院長(200x272) 【ニューヨーク=上塚真由】昭和天皇が太平洋戦争などに関する出来事を戦後に回想した「昭和天皇独白録」について、側近が記録した原本とされる文書が6日、ニューヨークで競売に掛けられ、手数料と合わせ27万5千ドル(約3090万円)で落札された。

 美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長(72)が自身のブログで落札したことを公表。皇室に提供する意向を明らかにした。主催した競売会社も産経新聞の取材に、高須氏が落札したと認めた。

 独白録は、昭和天皇が昭和3年の張作霖爆殺事件から、昭和20年のポツダム宣言受諾を経て終戦に至るまでの経緯を語った内容が書かれており、元外交官で側近の寺崎英成氏が鉛筆などで記録した。出品されたのは173ページ分で、寺崎氏の死後、遺族が米国で保管していたという。独白録の内容は平成に入って日本で出版され、大きな反響を呼んだ。

 高須氏はブログで、現地にいる代理人に指示して落札したことを報告。「『昭和天皇独白録』は日本の未来に役立つ財産だ。日本に取り戻すのは国民の使命だと思う。皇室にお返しするぜ」などと書き込んだ。

引用:産経ニュース


2017-11-19 00:00 | カテゴリ:歴史
■終戦の1週間後「日本最後の空襲」記録見つかる

2017年11月17日 NHK NEWS WEB

 かつての樺太、今のロシア極東のサハリンで、終戦の1週間後に旧ソビエト軍が行った空襲の様子や被害状況などについて、旧日本軍の大本営が記録した文書が初めて見つかりました。「日本最後の空襲」と言われる空襲の実態解明につながる貴重な史料として注目されます。

 この文書は、昭和20年8月に大本営が連合国側に宛てて作成した記録文書で、東京にある防衛省の防衛研究所で見つかりました。

 文書には、終戦から1週間後の昭和20年8月22日に、旧ソビエト軍の飛行機9機が午後3時半から午後4時半にかけて樺太の中心都市だった豊原、今のユジノサハリンスク市で銃爆撃を行ったことや、避難していた民間人5000人~6000人のうち、400人~500人の死傷者が出たことなどが記録されています。

 また空襲が停戦合意のあとだったとして、「非人道的行為で平和に禍根」と非難しています。

 樺太での空襲は「日本最後の空襲」と言われていますが、関係する史料はこれまでほとんど見つかってなく、詳細な被害状況や具体的な死傷者の記録が見つかったのは初めてで、空襲の実態解明につながる貴重な史料として注目されます。

 樺太の元住民で作る全国樺太連盟は「戦後70年以上たっても空襲の史料はほとんどなかった。大変貴重な文書だ」と話しています。

引用:NHK NEWS WEB


2017-11-14 12:00 | カテゴリ:歴史
■実話映画「殿、利息でござる!」江戸の庶民の思いやり~ 磯田道史『無私の日本人』から

国際派日本人養成講座

 動画は2分9秒じゃなくて 2時間9分だから、動画は夜にでも観て、記事を読んでからにしてください。

実話映画「殿、利息でござる!」129分(2:09:11) 松竹
2017/06/29公開 2:09:11 時代劇


◆1.心洗われる登場人物たちの無私の志

 「江戸時代のわが国には、こんなにたくさんの無私の人々がいたのか」と、『殿、利息でござる!』という映画を飛行機の中で見て思った。題名からコメディタッチの時代劇かと思って見始めたら、とんでもない。

 明和3(1766)年の仙台藩領内の宿場町・吉岡宿は藩から「伝馬役」、すなわち宿場間の物資の運搬作業を課されて困窮し、夜逃げが相次ぐ状況だった。吉岡宿は藩の直轄領ではなかったために、他の宿場のように「伝馬役」の助成金が支給されていなかったからだ。

 この窮状から宿場を救おうと、吉岡宿の有力者たちは金を出し合ってなんとか大金を作り、それを藩に貸した利息で伝馬役に使おうという奇想天外な企てを始める。登場人物たちの宿場を救おうという無私の志に、心を洗われる思いがした。これが観客動員100万人を超えるヒット作となった理由だろう。

 まだ観ていない人は、インターネットTVなどでぜひ観ていただきたい。あるいは、原作を読んでいただきたい。本稿では、その呼び水として、導入部だけをご紹介する。我が先人たちの持っていた清冽な無私の心に触れていただきたいからである。

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2017-11-05 12:00 | カテゴリ:歴史
■日本語が公用語? パラオの親日ぶりは中国人からすれば「信じがたい」=中国報道

2017-11-01 Searchhina

 太平洋のミクロネシアに存在するパラオ共和国は親日国であることが広く知られている。パラオは第一次世界大戦後に日本の委任統治領となったが、日本による統治を受けながら今も親日であることが中国人からすれば信じがたいようだ。

 中国メディアの今日頭条はこのほど、パラオは一部の州で日本語が公用語とされていることを紹介しつつ、国旗まで日本のものにそっくりだと紹介する記事を掲載した。

 記事は、パラオと日本の歴史を紹介し、パラオが第一次世界大戦後に日本の委任統治領となったが、第二次世界大戦で日本が敗北したことで、パラオは米国の信託統治を受けることになったと紹介。日本による統治前にはドイツやスペインの植民地であったパラオは、独立までに「何度も支配されてきた」と論じた。

 一方、日本は委任統治下にあったパラオで学校を建設し、日本語で教育を行ったため、パラオでは今でも日本語が広く使用されていると紹介。また、空港や道路などのインフラは日本の援助によって建設されたものも多いとし、美しい景色を求めて世界から多くの観光客が訪れるパラオは今も親日で、パラオ国旗のデザインは日本の「日の丸」と色が違うだけで瓜二つだと指摘した。

 パラオは中国とは国交を結ばず、台湾と外交関係を樹立している。しかも、日本と親密な関係を構築しているだけでなく、日本の文化的影響も色濃く残っているだけに、中国人からすればパラオには複雑な感情を抱かざるを得ない国のようだ。(編集担当:村山健二)

引用:Searchhina

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2017-10-19 17:00 | カテゴリ:歴史
■【朝鮮進駐軍】在日韓国・朝鮮人の事件年表

~1944年

1921年(大正10年)6月3日:東京市電運転手連続殺傷事件、東京市電の運転手だった朝鮮人が7人を殺害、10人を負傷させる
1923年(大正12年)9月1日:朴烈事件
1931年(昭和6年)1月18日:荏原警察署巡査殺害事件、秘密結社「赤色自衛団」が特高巡査を殺害
1932年(昭和7年)1月8日:桜田門事件、昭和天皇暗殺未遂事件。
1942年(昭和17年):多摩川流域軍需品窃盗団事件、軍需品工場を荒しまわる組織的窃盗団、窃盗338件、104人検挙

1945-1955年

1945年(昭和20年)
8月30日 名古屋少年匕首殺害事件、路上で少年3人が脅迫されて金銭を奪われ、匕首(ひしゅ)で切り付けられて1人死亡、1人負傷、犯人は拘置所から脱獄、韓国に逃亡
中国の「匕首」(ひしゅ、ビーショゥ)日本の合口(あいくち)のこと。
10月22日 大阿仁村事件、秋田県の栗林に侵入し村人と乱闘
12月
24日 生田警察署襲撃事件(第1回)拳銃強盗事件にからんで50名を超える朝鮮人の暴徒が襲撃、連合国軍が暴動を鎮圧
29日 直江津駅リンチ殺人事件、朝鮮人3人組が列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとし、それを阻んだ乗客にパイプやスコップ等で集団暴行し殺害、朝鮮人3人組は逮捕されたが程なく逃走

1946年(昭和21年)
1月
3日:富坂警察署襲撃事件、トラック2台に乗った朝鮮人約80人が署内に乱入、警官に暴行し、連続拳銃強盗事件の容疑者を連れ出し逃走
9日:生田警察署襲撃事件(第2回)30-40人の朝鮮人が、検挙された賭博団の奪還を目的に署内に侵入、進駐軍の協力を得て鎮圧
24日:七条警察署襲撃事件、ヤミ米捜査を巡って警察に押しかけ、さらに京都駅前で朝鮮人約700人が的屋・博徒と大乱闘
5月
4日:日光中宮祠事件、旅館の帳場に盗みに入ったところを旅館経営者の家族に発見され、包丁で一家6人を刺殺、現金と小切手などを奪い放火
13日:長崎警察署襲撃事件、闇市を取り締まった警察に対し朝鮮人や中国人など約200人が包囲・襲撃、警官1人死亡、10人重軽傷
6月9日:七条警察署巡査殺害事件、京都で職務質問をしようとした巡査を射殺、朝鮮人5人逮捕
7月23日:東条村強盗事件、長野県で4人組強盗団が捜査中の警官を拳銃で射殺
8月
中京私設警察事件、在日本朝鮮人連盟中京支部の「座敷牢」に男性を監禁、拷問した
5日:富山駅前派出所襲撃事件、闇米の取り締まりで朝鮮人と警察が大乱闘
29日:一勝地村農家6人殺害事件、熊本県で発生した強盗殺人放火事件
9月
22日:坂町事件、ヤミ米の取締を行っていた警官に集団暴行
29日:新潟日報社襲撃事件、坂町事件を報じたことに対し新聞社を襲撃
12月20日 首相官邸デモ事件、デモ隊が首相官邸に侵入、アメリカ軍憲兵隊が出動して解散させた

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2017-10-18 17:10 | カテゴリ:歴史

Wikipedia

 親子爆弾事件とは、1951年(昭和26年)12月16日に大阪府大阪市で発生した事件。在日朝鮮人によって、工場・民団襲撃、集団暴行などが起こされた。

 朝鮮戦争勃発後、日本経済は特需景気に沸き、大阪市東部の町工場では「親子爆弾(現在の用語ではクラスター爆弾)」を製造していた。

 そんな最中、ある朝鮮人の事故死をきっかけに東成警察署襲撃事件が起きるなど、東成区一帯が緊迫した空気に包まれ始めた。

 1951年12月16日午後、前述の事故死した朝鮮人の慰霊祭が執り行われた。慰霊祭には遺族などの関係者だけでなく、生前に何の縁のない朝鮮人が赤旗やプラカードを持って多数参列した。生野警察署は不穏な空気を察して解散命令を出したが、群衆はそれを無視し三つの部隊に分かれてデモ行進した。

 第一部隊は、生野区にある工場を襲撃しようとしたが、大阪市警視庁機動隊に阻まれて解散させられた。別働隊が某工場の侵入に成功し、親子爆弾を撒き散らした。

 第二部隊は、中河内郡巽町(現在は生野区内)方面に向かい、2ヶ所の工場を襲って、従業員を暴行したり施設を破壊したりした。

 第三部隊は、東成区方面に向かい、2ヶ所の工場を襲った後、民団鶴橋分団長の自宅を襲撃した。

引用:Wikipedia


2017-10-17 17:19 | カテゴリ:歴史
■終戦直後 朝鮮人が日本人にしたこと 東成警察署襲撃事件 1951年(昭和26年)12月1日

Wikipedia

 東成警察署襲撃事件とは、1951年(昭和26年)12月1日に、大阪府大阪市東成区で発生した事件。

 1951年11月10日午後6時頃、大阪市警視庁東成警察署の警察官が泥酔している在日朝鮮人男性(安重鎔)を生野区大友町で発見、保護した。保護後、男性の容態が急変し、治療の甲斐なく午後7時30分死亡が確認された。

 司法解剖の結果、死因は肝臓が破裂したことによる多臓器不全であった。彼は泥酔しながら自転車に乗り、誤って転倒した時に身体を強く打ち、動けなくなったところを警察官に保護されたのであった。

 翌日、署長は面会に訪れた遺族に、事の次第を詳細に説明したが、朝鮮人は男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けて、一方的なデマを流し、東成警察署に抗議するようになった。

 1951年11月12日午前7時30分ごろ、生活擁護同盟生野支部長ら約30名が署長に面会を求め、署長は代表者6名と面談し、真相を詳細に伝えた。

 1951年12月1日午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校(今の大阪朝鮮第四初級学校)に集まり、東成警察署までデモ行進した。

 その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された。

 12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した(親子爆弾事件)。

引用:Wikipedia


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