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2016-11-01 15:33 | カテゴリ:中国
■台湾 犬が去り豚が来た。日本撤退後の台湾を襲う大陸からの招かざる客

2016.10.31 MAG2NEWS

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台湾総督府(現・中華民国総統府)

 かつて日本の統治下にあった台湾。その後、日本に代わりやって来たのが中華民国軍、いわゆる「祖国軍」です。しかし、祖国軍の上陸後の台湾は治安が悪化し、犯罪も多発、「犬が去って豚が来た」という言葉まで生まれたとのこと。

◆台湾史に見る近代化の条件


 植民地というのはトクな面がある。その本国のいちばんいい所が植民地で展開されるからだ。
 (台湾の李登輝元総統の言葉 『台湾の歴史』p192)


 この元総統の言葉に呼応するように、台湾では歴史の見直しが行われ、「台湾人」としてのアイデンティティをより明確に打ち出した中学用歴史教科書『認識台湾』が使われ始めた(編集部注:現在は使われていません)。

 台湾人のアイデンティティの一つに日本統治時代を経験した事がある。『認識台湾』においては、差別を受けながらも、日本時代に普及した教育、医療衛生、法治、技術などが、台湾近代化に役だったと認めている。本号では、特に法治主義の導入について見てみよう。そこに大陸中国との大きな違いが見られるだろう。

◆「祖国軍」の上陸

 1945年10月17日、降伏した日本軍に代わって、台湾を接収するために、中華民国軍約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から上陸した。

 台湾の民衆は爆竹を鳴らし、晴天白日満地紅の小旗をちぎれんばかりに振り、歓呼の声で日本軍を打ち破ったはずの「祖国」の軍隊を迎えた。しかし、しだいに民衆の歓声は消え、爆竹は鳴りやんだ。

記事の続き有り 「>>続きを読む」からどうぞ ~( ^-^)_



 兵士達は銃のかわりに鍋釜をさげ、薄汚れた綿入れを着込み、ほとんどが草履履きで素足のものもいる。カラ傘を背負った者もいれば、鶏の籠を天秤棒でかついだ者もいる。しかも隊列はだらしなく曲がり、話しながらだらだら歩いている。


 台湾人にとっての軍隊とは、威風堂々と行進する日本軍の雄姿だった。台湾人の期待はまったくはずれたのである。そればかりではなかった。「祖国軍」の上陸とともに、婦女暴行や強盗事件が頻発した。商店からは横暴な支配者然として代金を払わず品物を持ち去る(『台湾の歴史』p147)。


◆犬が去り、豚が来た

 「祖国軍」の無法ぶりへの民衆の怒りは、47年2月27日に爆発した。ヤミタバコ摘発隊の6人が、逃げ遅れた老婆を捕まえ、殴打するとともにタバコと売り上げ代金を没収した。それを見とがめた民衆が抗議すると、隊員は逃げながら発砲し、市民の一人が即死した。

 翌28日、抗議の群衆が長官公署(旧総督府)前広場に集まり、行政の改善を要求した。そこへ憲兵隊が機銃掃射を浴びせ、数十人の死傷者を出した。ここにいたって台湾人の怒りは頂点に達し、官庁、警察、憲兵隊を襲い、放送局を占拠して、全島に異常事態を知らせた。

 陳儀長官は汚職の一掃と、基本的人権の保障などをほのめかせて、時間稼ぎをしつつ、本土の蒋介石に援軍を依頼した。3月8日、9日に2個師団が到着し、占領軍のように台湾人に襲いかかった。随所で暴行、略奪、殺戮が繰り広げられた。さらに全島で大学教授、弁護士、医師、教師などの知識人が次々と連行され、そのまま消息を絶った。


 資産家がわけもなく連行され、警察や官吏から釈放の代償として法外な「贖罪金」と称する賄賂を要求される例も随所にあった。李登輝総統の時代になってからの調査によれば、この2.28事件の犠牲者は1万9,000人とも2万8,000人とも言われているが、暗黒裁判の被害者などは調べようがなく、真相は不明である(『台湾の歴史』p153)。



 その後、台湾には40年近くもの間、戒厳令が敷かれ、その間にでっちあげられた政治的事件2万9,000余件、逮捕・投獄された者14万人と推定されている。蒋介石政府の無法ぶり、官吏汚職に台湾人は「犬(日本人)去って、豚(中国人)来る」(犬は吠える代わりに守ってもくれるが、豚は食い荒らすだけ)とか、「アメリカは日本に原爆を投下しただけだが、台湾には蒋介石を落とした」と嘆くようになった(『中国人の偽善、台湾人の怨念』p47)。


◆法治は国家統治の基礎

中国人の「豚」に対して、「犬」と称される日本人の統治はどうであったか。

 日清戦争の結果、台湾が日本に割譲された1895年当時、そこは化外(中華文明の及ばない)の地とされ、213年間の清朝統治時代に154回もの住民の反乱が記録されている。住民達は、3年交代で送り込まれてくる清朝の兵士や官吏に収穫の半分を収奪されていたからである。

 日本統治の最初の数年間も反乱とゲリラの抵抗が続いた。台湾経営が軌道に乗ったのは、98年に着任した第4代総督児玉源太郎と民生長官後藤新平のコンビによってである。後藤は全島に800人の調査員を派遣して、土地の測量と権利者の登記を行った。


 台湾大学の歴史家呉密察教授によれば、中国人社会において、「民衆の財産所有権を政府が初めて法令によって保証し、台湾を資本主義社会の道に踏み込ませた」と評価している。後藤はさらに交通や流通のシステムを整備し、度量衡、通貨の統一を図った(『台湾の歴史』p303)。


 法治は国家統治の基礎だという見地から、総督府は細かく法を定めて厳格に執行する日本方式を持ち込んだ。たとえば、官吏と民衆がともに守るべき娯楽規則などが逐一詳細かつ明確に作られた。

◆強烈な順法精神

 法治を徹底するためには、行政当局自らも法規を守らねばならない。花蓮のある日本人警察官は、妻が農民から紅露酒2本15銭相当を贈られたために免職になり、当時大きな話題となった。警察の月給が60円だったころである。

 台湾大学医学院長をつとめた魏火曜によれば、地位利用を意味する「揩油(カイヨウ、うまい汁を吸う)」などという言葉は、日本統治時代には耳にしなかったという。


 総督府の強烈な順法精神に加え、街の要所要所には警察局や派出所が作られ、そこから毎日警官がパトロールした。日本の警察は、台湾人の習慣を強制的に変え始め、左側通行の規則を作り、痰を吐いたり、手ばなをかむことを禁止した。当時を知る台湾人は「俺のためにこそ泥を捕まえてくれるが、俺が何かやらかせば遠慮会釈しなかった」などと語っている(『台湾の歴史』p308)。



 しかし厳しい警官だけではなかった。台南州で勤務していた森川清十郎巡査は、村民の税金軽減のために当局と争い、抗議の自決をした。村民は巡査を徳として「義愛公」と呼び富安宮に祀った。今でも「日本人の神様」としてお参りする人が絶えないという(『台湾と日本・交流秘話』p146)。



 このような厳しい法治のもとで、台湾は武闘の頻発する無法地域から、治安良好な法治社会への変わっていった。夜眠る時や外出のさいも、家に鍵をかけなくとも泥棒を心配する必要はなかった、と現在でもよく言われる(『台湾の歴史』p306)。


◆「公」と「私」


司馬遼太郎は言う。

 身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。その股肱(てあし)の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。このため近代が起こりにくかった。

 台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、勝者になった毛沢東の権力も、多分に私だった。毛沢東の権力が私でなければ、プロレタリア文化大革命などという私的ヒステリーを展開できるわけはないのである。


 歴朝の私が人民にとって餓えた虎であり続けた以上、ひとびとはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。
 (『台湾紀行』p43])



 李登輝元総統の願いは「夜、安心して眠れる国にしたい」ということであった。その願いの背後には、「夜にろくろく寝たことがなかった」という蒋介石時代と、「夜寝るときも鍵をかける必要がなかった」という日本統治時代の二つの体験が潜んでいる(『台湾紀行』p376)。


 民衆が夜安心して眠れるよう、「公」のためにつくす政治家や官僚、警官、軍人がいて、初めて近代国家は成り立つのである。

◆日本精神

 元総統は、産経新聞のインタビューで、「日本精神」という言葉を使った。この言葉は今も台湾で使われており、「約束を守り、礼節を重んじ、ウソをつかず、カネで動かない、というような心がけなのだ」と記者に説いた(産経新聞、H10.01.28)。

 この精神は、明治期の日本だけではなく、勃興期のイギリスにも、ジェントルマンシップとしてみなぎっていたものである。おそらく西洋と日本のみが経験した封建社会に発達した騎士道、武士道の精神的遺産である。

 こうした精神的土台の上に法治制度が築かれ、さらにその上で近代経済が機能する。台湾、香港、シンガポールの経済発展は、イギリスや日本が改良した精神的・法的土壌の上に、中国人がもともと豊かに持っている事業の才能が花開いたものであろう。

 いまだに法治主義も「公」の精神も経験したことのない大陸中国においては、この点が近代化の大きな障害となっている。
文責:伊勢雅臣

引用:MAG2NEWS


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