2017-08-11 16:56 | カテゴリ:法律時事犯罪悪徳商法
■【平成30年史 変容する犯罪(2)】地下鉄サリン事件 謎解明阻んだキーマンの死 オウムの呪縛まだ解けず

2017.8.11 産経ニュース

オウム真理教による主な事件(470x341)

 「断る理由もなく、つい入ったという感じ」

 オウムの後継団体「アレフ」の元信者の女性(44)はこう振り返った。

 平成3年、高校卒業を間近に控えた18歳でオウムの在家信者となり、2年後に出家。事件後もアレフと改称された教団に残った。

 先に入信していた姉の誘いがきっかけだった。埼玉県内にあった教団の関連施設に遊びに行くようになり、「自然な流れ」で入信を決めた。

 他の信者と寝食を共にする山梨・旧上九一色村の教団施設での修行生活は「サークルのような雰囲気」。そんな生活が突然、終わりを告げる。

 7年3月22日-。地下鉄サリン事件からわずか2日後、警視庁の強制捜査が始まり、警察とマスコミが大挙してやってきた。

 「宗教弾圧を受けている」。テレビも新聞もない情報から隔絶された生活のなかで、女性は幹部から聞かされた言葉を信じた。

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 事件当時、1万1400人いた信者の多くは教団を去ったが、女性は教団に残る道を選んだ。

 「脱会しても行くあてはない。教団とともに生きるしか道はなかった」

 女性は、教団の運営資金を稼ぐため人材派遣会社で働き始めた。仕事は経理部門での事務職。やりがいもあり、成果を認められて正社員登用の誘いも受けた。一方、12年に発足したアレフでは運営方針をめぐって幹部同士が激しく対立していたこともあり、「外の世界」を知った女性の心境に変化が生じた。

 「この先、教団がどうなるのか分からないという思いもあった。もう出てもいいかなと思い始めた」

 15年間を過ごした教団を後にすることを決めたのは34歳の時だった。

             ■ ■ ■

 オウム真理教が宗教団体として設立されたのは昭和62年。この年、東京・銀座の地価は1坪1億円を突破、ゴッホの「ひまわり」を日本企業が53億円で購入するなど、日本は空前の好景気に沸いていた。一方でソファに横たわりポテトチップスを食べながらビデオを見る「カウチポテト族」がライフスタイルとして注目を集めた。バブル景気に踊る者、孤独感を深める若者の二極化が進む、そんな時代にオウムは誕生した。

 物質的な豊かさに飽きたらず精神世界に豊かさを求めた。オウムに陶酔した若者を当時の評論家たちはこう表現した。

 実際、オウム事件の捜査に携わった警視庁OBは逮捕されたオウム信者の異常さよりも「普通さ」が印象に残っている。

 井上嘉浩死刑囚(47)は逮捕後、実家でかわいがっていた犬が死んだことを捜査員から聞かされ、子供のように泣きじゃくった。法廷で顔なじみの捜査員の顔を見つけると、満面に笑みを見せたという。

 サリン製造への教団の組織的関与を裏付ける重要な証言を行った土谷正実死刑囚(52)。逮捕から1週間、完全黙秘を貫いていたが、核心的な供述を引き出したのは、捜査員が投げかけた一言だった。

 「このままでは教祖が首謀者として逮捕される。それでもいいのか」。土谷死刑囚は意を決したように「よく分かりました。お話しします」と応じた。

 「みんな素直なやつばかりだった」と警視庁OBは振り返る。

             ■ ■ ■

 公安調査庁によると、平成28年11月末の段階でアレフと、アレフとたもとを分かった上祐史浩代表(54)が率いる「ひかりの輪」を合わせた信者数は約1650人。脱会者は少数にとどまる一方で、両団体による勧誘活動は活発化しており、28年には約130人の新規信者が確認されている。冒頭の女性は言う。

 「経済的に自立できたから辞める決心が付いた。でも、社会とつながりを持てない信者はズルズルと教団に残るしかない」。自ら犯罪に手を染めた幹部から末端信者にいたるまで、多くの者がいまだオウムの呪縛から逃れられずにいる。

               ◇

◆謎解明阻んだキーマンの死

 「あの時、あの場所でどういう話があったのか」。オウム真理教幹部だった野田成人氏(50)は22年前に目撃した奇妙な光景が頭から離れない。

 地下鉄サリン事件の強制捜査から1カ月後の平成7年4月22日。山梨県の旧上九一色村にあったオウム真理教の教団施設「第6サティアン」。野田氏は、緑色の法衣を着た男が施設から出てくるのを見た。教団の村井秀夫元幹部=当時(36)=だった。出迎えたのは、当時、村井元幹部の専属運転手だった出家信者。その手には茶色のボストンバッグが握られていた。

 野田氏の眼前で、村井元幹部はバッグの中に身を沈めた。運転手役の信者は、村井元幹部が身を潜めたバッグを車のトランクに収める。車は村井元幹部が普段の移動用に使っていた黒色のベンツだった。第6サティアンに潜伏していたのは「尊師」と呼ばれた麻原彰晃死刑囚(62)=本名・松本智津夫=だ。野田氏は確信した。「尊師と会っていたんだ」

 「村井元幹部は、警察に見つからないようバッグの中に隠れたんだろう。そこまでして会わなければならない理由があったのか…」

 それが、野田氏が見た村井元幹部の最後の姿だった。

 村井元幹部は2日後、不可解な死を遂げる。東京・南青山の東京総本部前で待ち伏せた29歳(当時)の男に、右腹と左腕を刃渡り21センチの洋包丁で刺されるのだ。男は指定暴力団山口組系の組員。だが、公判でも男の動機が明らかにならず、判決理由で裁判長は「犯行の背後関係は、いまだ解明し尽くされておらず、不透明な点が残る」と指摘した。

             ■ ■ ■

 村井元幹部の死は、オウム事件の捜査にも大きな影響を与えた。

 「村井元幹部が殺されたことで事件のすべてを知るのは麻原死刑囚しかいなくなった」

 当時、警視庁捜査1課でオウム事件の捜査に携わった元捜査員はこう述懐し、唇をかんだ。

 オウムは、事件で使われたサリンやVXなどの毒物以外にも銃器や覚醒剤も密造していたことが警視庁の捜査で判明する。巨額資金を持つ組織が銃器、覚醒剤に興味を持てば、暴力団が資金源として目をつけると考えるのは自然だ。

 「教団の武装化には暴力団が絡んでいる可能性が高かった。村井元幹部が暴力団との折衝にあたっていたとの見方もあったが、解明できずに終わった」

 サリン事件の中心的役割を担っていた死刑囚の取り調べを担当した元捜査員は、取調室で発した言葉を鮮明に覚えている。

 「『すべての指示を出していたのは村井(元幹部)』。麻原死刑囚を守るための方便だったのかもしれないが、村井元幹部が死んだ今となっては真偽を確かめることはできない」

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 27年2月28日。元捜査員約30人がささやかな酒席を囲んでいた。一連のオウム事件に警視庁が本格捜査に乗り出したきっかけとなった目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件の発生から20年にあたる日だった。

 席上、当時の捜査幹部は「オウムは70トンのサリンを精製して、山梨の敷地にあったソ連製のヘリコプターで山手線の内側に散布する計画だった。もし実行されていたら、われわれはいまここにいない」と語った。

 オウムへの強制捜査で計画を未然に防いだともとれるが、宗教を隠れみのにした凶悪なテロ組織の肥大化を見過ごしてきた側面も否めない。首都・東京は3年後に五輪・パラリンピックを控え、テロの脅威が改めて高まっている。

 「オウムとは何だったのか。そして暴力団との関係はどうだったのか。解明できていない謎は残っている。こうした謎を解くことが新たなテロの防止にもつながるはずだ」。オウム事件を捜査した警視庁OBは指摘する。

引用:産経ニュース

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