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2015-11-18 12:00 | カテゴリ:感動癒やし泣ける話
■1890年エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ奇跡の実話

日本人では知らない人が多いようですので今回はこの「奇跡の実話」を記事にしました。

 1890年トルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県沖で遭難。日本は遭難者の救助に当たり、生き残った乗組員たちを日本海軍の軍艦で母国に送り届け親日になりました。

2015/08/08公開 15:48


 事の発端は1887年に遡る。明治天皇の甥に当たる小松宮彰仁親王は親王妃と共に初の国産軍艦・清輝に搭乗して本邦初の船舶による欧州歴訪を果たす中、帝政末期のオスマン帝国(この一部が現在のトルコである)の首都イスタンブールを訪問し時の第34代皇帝アブドュルハミト2世に明治天皇から賜った勲章や親書を送っている。

 これの答礼として、オスマン帝国から特使が派遣されることとなり、彼らを乗せる船として事故を起こすこととなったフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれた。エルトゥールル号は建造から25年経った老朽艦であり、出航前には木造の部分の補強なども行われている。しかし、機関部の補修などは放置されてしまった。

 日本への特使として、将校50余名を含めた609名の乗員が選出された。特に士官学校を出たばかりの若い少尉が多く乗り込むこととなった。なぜなら、この任務事態が明らかに困難の伴うものではなかったためで、主に卒業直後の彼らに経験を積ませる目的があったと言われている。(ちなみに清輝の欧州歴訪も国産艦及び邦人乗員による長距離航海の練習の意味合いが強かった。)

 エルトゥールル号は数々の港を立ち寄りながら日本へと航海を進めた。日本に着いたのは出航から11ヶ月も後の6月7日、横浜港にようやく到着した。

 明治天皇から歓待を受けた彼らは責務を果たし、帰路の準備も整った3ヶ月後の9月に、故郷への出航が決まった。

 ところがこの時、日本には台風が押し寄せていた。明らかに船出には不向きな天候な上、エルトゥールル号は長い船旅をするには心許ないくらいに消耗しきっていた。

 日本政府は出航の延期を進言したが、責任者はその提案を固辞した。海軍の戦力低下の懸念もあって、1日も早く彼らは故郷へと帰らなくてはいけない思惑があったのである。

 日本政府の心配を他所に、エルトゥールル号は出港、しかしその途中で政府の懸念していた以上の事故が起きてしまった。

 エルトゥールル号は本州最南端にある和歌山県東牟婁郡大島村(現・串本町大島)の樫野埼沖で台風に進行を阻まれるなか、地元で船甲羅(うなごうら)と呼ばれ恐れられている岩礁群に衝突して船体が割れてしまう。

 さらにそこから機関室に海水が侵入、機関部は水蒸気爆発を起こした。こうしてエルトゥールル号は沈没し、船員は冷たい海に投げ出されていった。

 流された船員たちは樫野埼灯台を見つけ、灯台守にエルトゥールル号の惨劇を知らせに行った。と言ってもたかだか3ヶ月しか滞在していない小国の言葉など船員は憶えていない上に憔悴しきっていた。

 何を言っても通じない外国人に灯台守は「万国信号書」を見せて、ようやく彼らがトルコ人であることを知った。

 灯台守は近隣の村々に応援を要請、人々は女子供も問わずに乗員たちが投げ出されているという紀伊大島の沿岸へと向かった。現場は惨憺(さんたん)たる有様だった。岸に打ち上げられた乗員たちはほとんどが虫の息。遺体も投げ出されているし、しかも海岸には息絶えたトルコ人の遺体が何体も浮かんでいた。

 村人たちはそれを見てひどく心を痛め、異国の地で絶える無念を思って泣いたという。

 そして奮起した彼らは、息のある負傷者を自らの体温で温めたり、溺れて助けを待っているかもしれない乗員を救うため嵐の海へ飛び込んだり、四方八方手を尽くして救出にあたったが、結果として乗員587人は死亡または行方不明となって日本の地でその生涯を終えることとなった。引き上げられた遺体は丁寧に村の人々が葬ったという。

 助け出したとはいえ、この村はほとんど施設の整っていない貧しいど田舎の村だった。まともな医療施設などもちろんなく、しかも台風の影響で漁に出られないので食料も底を尽き始めていた。

 それでも彼らは自分たちの食い扶持を減らし、最後に残ったニワトリをも彼らに利用し、献身的に介護した。

 結果として、残りの69名の人命は救われた。この報を聞きつけた政府は負傷者たちを東京へ移し、施設の整った医療機関で治療を受けさせ、彼らはなんとか快方へと向かった。

 さらにこの話を聞きつけた言論活動家の山田寅次郎は、彼らのために2年がかりで約5000円(現在の約1億円)もの義損金を募っている。

 回復した乗員たちを返すため、日本政府は比叡、金剛の2隻の軍艦に彼らを乗せて、トルコのイスタンブールへと送った。

 この時、山田は義損金を託そうとしたが、時の外務大臣・青木周蔵から「せっかく募ったのだから君自身が渡すといい」と言われて、一緒に軍艦へと乗り込んでいる。

   しかし、この話はこれで終わらない

 1985年、イラクのサダム・フセインが、「48時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」と布告を行った。

 これを聞いてイランにいた外国人たちは全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこすなか、日本は憲法9条が仇となり、その原則から救出のための自衛隊を送り込めなかった。
 (なお現在は自衛隊法が改正されており、限定的に派遣が可能となっている。)

 ちなみにこの時、自衛隊派遣に反対したのは当時の最大野党であった社会党、現在の社民党である。

 さらに民間の日本の航空会社も、イラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとした。

 かくなるうえはと各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救援で手一杯となっており、とても外国人を乗せているような余裕はなかった。

 こうしてイランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えるしか無くなっていた。

 イラン駐在の野村豊大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続け、やがてトルコ大使館に辿り着いた。もしかしたら要請をしていた本人はまた断られると思っていたかもしれない。

 だが、当時のトルコ大使イスメット・ビルセル氏は、
「わかりました、直ちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」

と答えて要請を快諾。実際にトルコ政府はトルコ航空の救援機の最終便を2便も増やした。その上でトルコは自身の国民も苦難を抱える中で、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたという。それはタイムリミットまで1時間15分に迫った時の事だった。

 当然乗りきれなかったトルコ人が出てくるわけだが、トルコがイランからそれほど遠くなかったことから、彼らは陸路を自動車でイランから脱出したという(その数なんと日本人の倍の約500名)。

 搭乗する日本人を残留したトルコの人たちは手を振って送り出したという。

 このような逸話は他にもいくらでもあるが学校では全く教えていない。この話が逆の場合には「かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」
と言えない、なぜなら教えてもらっていないから・・・

 失礼で恩知らずな話である。


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